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第4回 桔梗ヶ原メルロー改植50周年
― 急がず、続けるための決断 インタビュー記事 vol.3

甘味果実酒の時代が揺らぎ、本格ワインへの転換が求められた1970年代。メルシャンが桔梗ヶ原地区で進めたメルロー改植を、現場の最前線で担ったのが、シャトー・メルシャン元工場長の上野 昇氏でした。
桔梗ヶ原が「日本のメルロー」の銘醸地として確立するまでの取り組みや苦悩、産地としての考え方、そして、“次の50年”を見据えた取り組みについて伺いました。貴重なお話を全3回でお届けいたします。

上野 昇(Noboru Ueno)
シャトー・メルシャン 元勝沼ワイナリー工場長

1975年、三楽オーシャン株式会社(現・メルシャン株式会社)入社。
当時、同社初の果樹を専門とする大卒技術者としてブドウ栽培・原料開発に携わる。入社直後より、長野県塩尻市桔梗ヶ原をはじめとする産地で欧州系品種の導入、栽培技術の確立、生産者指導に尽力。1970年代後半から始まった桔梗ヶ原におけるメルロー改植では、現場の最前線で栽培技術の検証と普及を担い、日本を代表するメルロー産地の土台づくりに貢献した。
その後、醸造・栽培の両面からワインづくりに関わり、工場長として現場を統括。退任後も、日本ワインの技術発展と人材育成に深く関わり続けている。

1.転換の前提は「技術」以前に“生活”だった

1970年代、本格ワインの時代が来る。そんな期待が語られる一方で、桔梗ヶ原の現場には、簡単には動かせない現実がありました。ブドウ栽培の主力品種はアメリカ系のコンコードやナイアガラなどで、病気に強く、管理の手間も比較的少ない。
一方、欧州系品種は病害リスクが高く、同じように栽培しても健全なブドウは収穫できない。知識の差だけでなく、経験の差、そして“常識の差”がそこにはありました。
さらに大きかったのは、植え替え=収入が途切れるという問題です。木を切れば、その瞬間から家計に影響が出る。植え替え後に収量が安定するまで年単位で時間がかかることを思えば、農家にとっては「正しいかどうか」以前に「暮らしが持つかどうか」が核心になります。
だから品種転換は、理想論だけでは進められない。生産者の生活を壊さずに移行できる“設計”が必要でした。

1969年塩尻市の空中写真
1969年塩尻市の空中写真

だから品種転換は、理想論だけでは進められない。生産者の生活を壊さずに移行できる“設計”が必要でした。

Episode
品種転換の議論は、理想より先に家計の現実から始まっていました。
ブドウが十分な量の収穫ができるまで最低5年かかる中、畑を一斉に改植すれば収入が落ち、生活が立ち行かなくなる可能性がある。上野氏の「三年ぐらいスコーンと収入がなくなる」という言葉は、その重みそのものです。
だから“優良な品種”より、生活を壊さずに移行できる設計が必要だった。
段階的な移行を前提に、綿密に準備して進めたことが、桔梗ヶ原メルロー改植の大きな特徴のひとつでもありました。

2.“意思のある人だけ”を集めた講習会が、空気を変えた

1976年2月に開かれた講習会は、後に転換点として語られる出来事です。重要だったのは、対象を広げすぎなかったこと。
最初から「やると決めている生産者」に絞り、段階的な切り替えを前提に計画を設計したことで、参加者自身の覚悟と理解が積み上がっていきました。
講習会に向けても戦略的な準備がありました。世界のワインの潮流を示し、桔梗ヶ原の常識が“世界の常識”と違うことを共有する。そのうえで、なぜメルローなのか、栽培方法がどう違うのかを具体的に示す。さらに行政も交え、地域の取り組みとして位置づける。林 幹雄氏の成功事例が核でありながら、「誰か一人の成功談」で終わらせない。その設計が、のちの大きな転換の土台になりました。

メルロー講演会(林幹雄氏)、参加した生産者

Episode
上野氏は後から「勘違いしていた」と振り返ります。講習会は全員集合ではなく、最初から“切り替える意思のある人”に絞った場だった。だから反発が大きくならず、空気が前向きだったという。
入社1年目で講習会の講師という大役を担うことは、プレッシャーも大きい。けれど、自分で決めて来ている人に「こうすればできる」という可能性と希望を渡し、全員で理解して一緒に取り組んでいくことが、桔梗ヶ原メルロー改植の大きな推進力になったのです。

3.「メルローしかない」―桔梗ヶ原のテロワールが導いた選択

当時、世界的に知られた黒ブドウ品種といえばカベルネ・ソーヴィニヨンでした。しかし高冷地の桔梗ヶ原では、熟期の遅さがリスクになる。熟し切らない年があること、収量が安定しづらいことが壁になりやすかったのです。
そこで品種候補として浮かび上がったのがメルローでした。比較的早く熟し、安定した収量も見込める。品質と経済性の両面で、当時の桔梗ヶ原が“勝ち筋”を描ける選択でした。
ただし、桔梗ヶ原で“勝ち筋”を描くためには条件がありました。コンコードなどと同じ作り方では通用しないということです。防除の考え方も、病害への向き合い方も変える必要がある。
講習会は、単に品種を紹介する場ではなく、栽培の“常識”を書き換える場でもあったのです。そして、移行は一気ではなく段階的に。
上野氏が語る「(コンコードを)収穫しながら、徐々に切り替えていく」という思想が、後の大規模改植へとつながっていきます。

メルロ種栽培要綱(一部)

Episode
品種を決める以上に難しいのは、栽培方法の前提を変えることでした。
コンコードの延長でメルローを栽培すれば失敗する。上野氏の「コンコードと同じように作っていたらメルローは作れない」という一言は、技術論だけではありません。
難しい理屈より先に、“現場の常識”を切り替えることが鍵になりました。

次回: 前例なき6000本改植、隠れていた課題が動き出す
「パッと切り替えるんじゃなくて、(コンコードを)取りながら、徐々に切り替えていく。」
植え替えは理屈より先に、生活に響く。だから混植で収入をつなぎ、時間をかけて技術と理解を積み上げる。急がないのではない。続けるために段階を踏む。その構想があったからこそ、次の一手「6000本改植」へ進むことができた。
次回は、前例のない「6000本改植」が何をもたらしたのかを追います。畑ごとの差、苗木の違い、ウイルス―“見えなかった課題”が一気に可視化されていきます。

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